身体能力の向上を伴わない全ての科学、医学は「退化」への道でしかない
ダーウィンの進化論は正しいのか間違っているのか、答えは出ていないようですが。
フィンチの嘴が島毎にその形状を変えることが果たして「進化」なのか「退化」なのかっていうことですね。
生き物は適応する、もしくは適応出来たものが生き延びる、ということ。
恐らくは様々な形状の嘴を持つものが混在していた中で、その島々に合致した形状の者が生き延びたということなんだと思われます。
それが「進化」なのかどうなのかっていう問題は、例えば嘴の形状が変わったことによって、喋れるようになるだとか、海中でも呼吸が出来るようになるだとか、新しい機能を持つとか、そういうのを「進化」と言うんじゃないの?っていうことで。
恐竜が鳥になるのは「進化」でしょうが、適応は「退化」じゃないのか?ということですね。
喋れる鳥といえば、昔は九官鳥でしたが、最近はサッパリお見限りですね。
どうでも良いことですが。
サテサテ。
そういう視点で見た時、医学や科学、文明の発達は「進歩」なんだろうか?
身体の能力を今まで以上に引き出すことが「進化」じゃないのか?ってことです。
「進化」と「進歩」は厳密には意味が違いますが、いずれも「退化」「退歩」という言葉がありますので、ここでは進↔退だけを対立させて考えています。
身体は使う程に丈夫に、より能力を発揮していくものです。
視力の低下だとか、老眼なんていうのは「使い過ぎ」や「老化」と勘違いしがちですが、目の様々な筋肉を十全に使えていない事による萎縮でしかありません。
身体は使う程に丈夫になるのですから、当然、使わなくなれば能力が下がり、弱くなっていくものだということです。
廃用なんて言いますね。
眼鏡やコンタクトレンズを使用することは、視力の回復に寄与しないのだから「進化」とは言えない。
目の退化によって新たな感知能力が目覚めたら「進化」かもしれませんが。
機能が落ちた部分を補う技術は、機能向上に何ら寄与しないどころか、廃用を推し進めるものです。
セニアカーとかね。
脚が萎えたのなら飛べるようになって「進化」っじゃないのか?っていう。
動く歩道にせよ、エスカレーターもエレベーターも、車も鉄道も飛行機も。
本来的な「進歩」と言うのなら、身ひとつでより早く移動出来る身体、長距離を移動しても疲れない身体、という身体能力の向上、進化があってこそなんじゃないのか?
摘出手術なんてのは物理的に「廃用」を促進するだけのものでしかありません。
「使えないんなら捨てちゃえ」
っていうのは、どう考えたって「退化」の技術ですよね。
7割だかという大半が不調を自覚していて、半分が癌、アレルギー疾患を持っているというのは医学、科学、文明の進歩、進化と言えないんじゃなかろうか。
私たちが今の身体で感覚出来る範囲というのは一応、限られていることになっています。
例えば可聴域なども動物に聞こえる音が聞こえなかったり、目だって鼻だって舌だって皮膚だって、私たちの身体だからこそ受け止められる、感じられるものを感じているだけで、世界はもっと豊かです。
初期のCDは、聞こえない音なんか要らないからとちょん切っちゃいましたし、mp3とかの圧縮技術は音をスカスカにしてしまう。
そうするとやはり音が違って聞こえるということが解ってきて、最近はデジタルでもハイレゾなんていう音が出てきました。
つまり、今の科学で「人の身体はここまで」と考えられていることが、本当にそうなのかもまだ解っちゃいないんです。
身体の可能性の限界を知る者はいません。
それを知らずして、機械の身体の方が良いものだと考えるのは早計に過ぎる。
ムーンショット計画とかね。
恐らく限界値は機械の身体の方が低くなります。
それは「進化」を妨げる技術ということですね。
身体の可能性をとことん探っていく学問なり、技術こそが、大切なんじゃないだろうかと思うんですよ。
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【可能な術内容】
・全身及び内臓の深部バランス調整。
・血流の回復から改善、血流の歪みの修正、修復誘導までの対応。
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